2012年01月29日

私が日本語教師になったわけ その1

明けましておめでとうございます。
年男のサンボンです。


1月23日はベトナムのお正月(テト)でした。
例年、テトの休暇にはどこか暖かい場所へ旅行へ出かけていたのですが、
今年はビザの延長手続きの関係でどこへも行けませんでした。
そんな折、むらログのみどごんパパさんからある企画にお誘いをいただき、久々に日記更新です。

この企画は日本語教師のブログを「連環の計」するというもので詳しくはコチラをご覧ください。


 

「私が日本語教師になったわけ」


■その1:ジョアン・フックの版画で「日本語教師になろうか」と思った

約20年前の春、北国の小さな町にあるサンボン家に、オーストラリアからの短期留学生が訪れた。
背と鼻が高く負けず嫌いなところのある女性だった。日本語もそれなりに話せ、意志の疎通にあまり不便はなかった。
日本人か日系の家庭教師に習ってきたという。その時に「日本語教師」という職業を知った。



ある日、ノートを片手に何かを質問された。しかし、答えるための言葉がまるで出てこなかった。
国語も好きだったし、何かを分かりやすく説明することはどちらかと言えば得意だと思っていたのだが、
明示的な知識として日本語を意識したことがない少年サンボンは、「あれ? 俺、日本人なのに」と、
日本人としての個のアイデンティティが揺らいだ。恥さえ感じ、不思議がり、興味を持った。



10か月の後、サンボン家にはコアラのぬいぐるみやらブーメランやらのオージーグッズと
いつかの「リベンジ」をたまに思い出す少年サンボンが残された。



そして、その小さな種は進路を決める段になり、静かに萌芽したのだった。
きっと、玄関脇のトイレに掛けられてた「※ジョアン・フック」の版画が醸成させたのだと思う。


※ジョアン・フック:オーストラリア人女流画家

その2:バンドンのスパゲッティーで「日本語教師になれるな」と思った

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2012年01月30日

私が日本語教師になったわけ その2

■その2:バンドンのスパゲッティーで「日本語教師になれるな」と思った


2,3年後、少年サンボンは日本語学科に所属する学生になっていた。

サークル棟のPCのOSはウィンドウズ3.1。
8インチディスクを入れ『ぷよぷよ』で遊んでいた記憶がある。
「ガチンガチン、ガチンガチン」読み込みの音が銀玉鉄砲のように響いた。

駅前のゲーセンでは『真・侍魂』『ときめきメモリアル・対戦パズル玉』が流行っていた時代だ。


日本語学科に入った時点で、卒業後は日本語教師になることを漠然と、しかし確信していた。
サンボン家のメンバーは、基本「MOTTAINAI」精神が注入されているのだが、
そのためか、日本語学科と関係のない仕事に着くという考えは殆ど起きなかった。


2年生の春休み、インドネシア等3か国をまわる研修旅行の話があり、参加した。
初めての海外、というよりも飛行機に乗ることさえも初めてだった。

ジャワ島の真ん中辺にあるバンドンという街でパジャジャラン大学の学生に特別授業をした。

今見たらつっこみ所満載でブクブクと沈みそうな特別授業だっただろうが、
グループで半分徹夜して準備した熱意が伝わったのか、それなりに手ごたえを感じた。

しかし、授業の手ごたえよりもその後に案内された街のスーパーで見かけた物で
「あっ俺、日本語教師になれるな」と思った。



それは、「スパゲッティー」だった。



当時、4畳半の学生アパートに一人暮らしをしていたのだが、
近くに南関東ローカルのスーパー「いなげや」があった。
そこでいつも買う1束100円のスパゲッティー500g(原産国:インドネシア)。

お米でなければ、これが主食だった私は、いつも食べるのと同じ物がここに売っている。
だから「この街で暮らしていける」という変な自信を持ったのだ。


「海外での一人暮らし」に対する印象が「よく分からなくて不安」から
「大丈夫! 食うには困らない!」に変わった。

特に海外で日本語を教えることを躊躇しなくなったのはあのスパゲッティーのおかげだ。


■その3:バンコクの周辺で「なりつつあるぞ」と思った

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2012年01月31日

私が日本語教師になったわけ その3

■その3:バンコクの周辺で「なりつつあるぞ」と思った

更に2,3年後、学生サンボンは卒業し、青年サンボンへジョブチェンジした!(無職だが)

もともとはアルバイトで貯めたお金を持ってインドネシアへ行くつもりだったのだが
ジャカルタでの暴動のため断念、ゼミの先生のお知り合いのいるタイで就職活動をすることにした。


60万円ほどのお金が無くなれば、帰国するよりない。
一番安かったビーマンバングラディッシュの機内はカレーの匂いが漂っていた。


もちろん、国内の日本語学校も考えたが、ちょうど氷河期のど真ん中でポストは縮小傾向。
大学の日本語学科を出ただけで、他のアドバンテージがほとんど無い青年サンボン。
仮に非常勤で採用されても実家暮らしでもないため日本語教師の給与では生活費が賄えるか怪しい。


また、「パソコン通信」から「いんたーねっと」なるものに変わりつつある時代だった。
なので、「いんたーねっと」で海外就活する手もあったのだろうが、やはり強みがない。

海外なら新卒であれ、現地に居れば直接面接がしてもらえる。
だから履歴書が弱くてもまだチャンスが多いだろう。
そんな考えだったと思う。


微笑みの国へ到着後、カオサンの宿でホットメールのアカウントを取って、
ゼミの先生のお知り合いのM先生から就職活動の方法を教えていただいた。


国際交流基金バンコックセンターには求人用の掲示板があった。
そして、図書館には日本語教育関連の書籍や教授法のビデオも豊富にあった。


朝起きて図書館へ行き、掲示板を確認。図書館でビデオを見て、本を読む。
屋台でお昼を軽くすませ、午後も同様。帰り際、もう1度掲示板を確認。
夕食に白米を買って帰り、魚のトマト煮の缶詰をおかずにする。寝る。


ある先輩教師からは「修行僧のようだね」と言われた。
借りたアパートの大家さんからは「電気代が安すぎるけど大丈夫?」と聞かれた。


月1で開かれる教師会に参加し、知り合った人の授業を見学したり、ゲストとして使ってもらった。


そんな生活を続けて5か月。
予定していた教師のドタキャンにより、ある大学から電話がかかってきて採用された。

直接的な「私が日本語教師になったわけ」は「他の教師のドタキャン」だったのだが、
それまでの日々は、非常に多くの先達の姿を見る機会になっていた。


ずいぶん後に「正統的周辺参加」や「発達の最近接領域」という言葉を習ったが、
下っ端の徒弟がより熟達したメンバーの仕事を見よう見真似でやってみて学習するように
あの期間、あの状況に身を置いたことで、だんだんと日本語教師に成っていったのだと思う。

posted by サンボン at 00:00| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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